碁石海岸

碁石海岸に立つ。


「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている美しい海岸だ。
黒い玉砂利を敷き詰めたようなところからつけられた名であろう。
この石は黒色泥岩(ホルンフェルス)。
約1億3千年前、海溝に堆積した泥が海底プレートに押され競り上がったためにできた熱変成岩である。

足下のひとつひとつの石も、地球のかけら。 地球史の産物だ。
地球で生まれて地球に帰って行く。
1億年もの先なら、今放射能から出ている核種もほぼ消えているかもしれないが、
人類のほうがそれより先に消えているのかもしれない。









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陸前赤崎から碁石海岸:13.3km



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田老から碁石海岸:149km

吉浜をぬけて小石浜へ

大船渡市の吉浜。

津波の被害を受けながら、民家の被害がなかった場所。
過去の教訓から民家を高台へ移したことによる結果である。




鍬台(くわだい)トンネル。全長2,305メートル
ガードレールや歩道のない2キロのトンネルを、
徒歩で通過するのはなかなかしんどいことであった。
横をがんがんトラックや乗用車が走り抜けて行く。
大きなザックを背負っていると、振り返って後ろを確認するのも危険を伴う。
結局休むこともできずに、2キロを黙々と通過した。


記念にぱちり。 
石井友規のものは登山用だから付いていないが、
こんな場合ザックに反射板が必要だ。






歩きたい、と思ってここへ来たと書いたが、
石井友規はもちろんスポーツとしてのウォーキングをする為に三陸まで来た訳ではない。



撮影行とは、修行のようなものでもあると、時に考える。
千日回峰ではないが、何の為に、を自らに問い、
追求し、対峙し、入り込み、同化し...
何の為に、から自らを解き放つ為の行のようなものかもしれない。
だから、ひとりで行くのは自己との対話には一番適しているスタイルである、とも言える。

といって、旅の間自問自答してこもって黙々としている訳ではない。
人との出会いは、いつも旅の醍醐味のひとつである。
旅の中で、出会う人、とりわけ子どもたちと話すことは大きな魅力であり、
最優位を占める存在だ。 

彼は子どもが大好きだ。
いつも、石井友規は、写真を通して子どもたちに
地球の素晴らしさ、感謝を知って欲しいと願っているが、
それは、とりもなおさず彼自身が貫きたい、そうありたいと願っていることでもある。

しかし、三陸で出会う人達は、みな優しい。
大きな悲しみを皆抱えているだろうが、悲しみを知る人は強くなれるのかもしれない。
いろいろな人に出会い話す度に、
逆に「がんばってね。」「たいへんね。」「気をつけてね。」と励まされる。
強いということは他に優しいことだと、教えられているような気がする。





連日の曇天で、持参したソーラー発電で、十分に充電できない日が続いている。
ザックにはテルテルボウズも必要かも...




(この日記は、石井友規写真事務所担当スタッフが、石井友規本人から送られる写真・旅程等をもとに、その行動を想像を交えながら自由に描いております。)






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根浜海岸から小石浜まで:38.9km





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田老からの総距離:123km

大槌町から根浜海岸

復旧の見通しがたたず閉鎖される吉里吉里駅。





大槌町役場。時計はその時のまま。




  


大火災で焦土と化した町。当時の面影は何も感じられない。





言葉にならない、と言う言葉が頭に浮かんだ。

震災の報道で幾度となく聞いた言葉だ。

誰しも同じ想いに捕われるのだ。


人の営みがごっそり波にさらわれ、基礎だけになったまちの残骸。

無力感に襲われる。

どうしようもない虚脱感。

まちとそこにあった暮らしといのち。

あたたかみのある存在をもぎ取られた灰色の廃墟。

ただ海が、すぐ向こうで、今日は静かに凪いでいる...






仮設ローソン。


 

 

被災地あちこちで復興支援に感謝の言葉。


しかし、まちはまた人々の手によって、生き返ろうと必死でもがいている、

そう思える風景や人に出会うことで、喪失感は再生へと変化する。

歩くことにもだいぶん慣れてきたので、

移動したり停まったりしながら行くことにし、今日は根浜海岸にテントを張った。



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大槌町から根浜海岸:9.1km


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田老から根浜海岸:59.4km

山田町2

8月15日

光山温泉から下り、湾に小さな島を抱く山田湾を巡り、道の駅やまだで、テント泊。




山田町の世界一高い堤防がなくなり、「こんなに海が近かったのね」と、お店のおばちゃん。



山田町は、0か100かの被害と言われる。

被害を受けた地域は、まさしく何もなくなってしまった。


津波で町ごと被害を受け、多くの家々は土台を残してすべて流された。

漁師の中には、舟を津波から逃す為全速力で沖へ向かい難を逃れた方もいるが、

彼らは自分の生まれそ育ったまちや人々が津波に飲み込まれるのを見ながら、

何もできなかったという想いに今も苦しんでいる。


大切なものを失う。

町ごと消える、というカタストロフを目の当たりにした人の心の痛手は、想像に難くない。

癒えることのない苦しみに一生悩まされ、悲しみ続けなければならないのか。




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光山温泉から道の駅やまだ:8.8km





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田老から道の駅やまだ:62.6km

大槌町

山田町から大槌町へ。
吉里吉里駅でテント泊。




山田町船越地区にて被災者慰霊。「大変ね。頑張ってね」と、逆に励まされ、東北人の強さと優しさを知る。


 

美しききりきり海岸。シャクリシャクリと音を鳴らし歩く。







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今日歩いた距離:9.4km(道の駅やまだから吉里吉里駅)




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総距離:51.4km(田老から吉里吉里駅)

山田町


朝、テントに家を作っていたイモムシ君。

いつのまにか間借り人と同居していたんだな...



 

被災地あちこちで復興への決意と復興支援に感謝の言葉。

感謝...最勝の生きる力は、感謝から湧き起こるのかもしれない、と思った。

死の間際にも人は「ありがとう。」と言う。

とすれば、生死に関わるほどの、究極の人の生きることの証明、意味、核にあるもの、

それが感謝なのかもしれない。




その日、いとも簡単に乗り越えられた宮古津軽石川水門。

この水門は、平成元年から18年もかけて建設工事が行われ、

明治三陸津波地震の時の8.5メートルの津波を想定して造営されていたとのこと。

真新しい巨大基地のようなコンクリートの造営物も、

自然の猛威は軽々と凌駕してしまう。

なんとあっけないことだろう。

進歩した文明...自然にとってはおもちゃのようなものを、

人間が自画自賛しているだけのようで、滑稽で悲しく映る。








浄土ヶ浜を後にして、宮古から海岸沿いを歩き始めた。
一昨日田老を発って早くも右足にでき始めた水ぶくれは、両足に広がりじんじんと痛みを与える。
しかし、久しぶりに歩く長距離の旅に順調に身体は反応し、順応しようとしている。その自分の望む自分の身体に変化していく過程が、痛いとはいえ石井友規に取っては喜びでもある。
じりじりと照りつける太陽も、海風に吹かれながら歩けばかえって気持ちがいい程だ。

元来じっとしているのが嫌いな、運動が好きな性格である。高校生の時には、校内のマラソン大会で並みいる陸上部の面々とトップ争いをした唯一の写真部部員であったし、大学の時は、ハードなアイスホッケー部の練習に汗を流した。
今も撮影で殺人的にハードなスケジュールをこなせるのは、その頃に強靭な体力を培うことができたからかもしれない。

しかし、仕事では、長く歩くことはそれほどない。 
都会で仕事をしながら、じっと縛り付けられるような圧迫感を感じながら青空の下を歩くことを渇望してきたから、彼は身体とともに心も快活に軽やかに、弾力を取り戻してくるのを感じていた。

石井友規はいつもやりたいことで頭が一杯である。
しかしながら、人はなかなか自分がしたいことだけをして生きるわけにはいかない。
写真、という生業にこだわり、大学卒業から一貫してプロの写真家として起っている石井友規は、自分のやりたいことをしている人間の部類に入ると言えるのであろうが、それでも、仕事での撮影と、作品の撮影とはまた違うものである。
自分の思うままの旅の中に自分を投じていること、その感覚が蘇ってくること、それそのものが、一番欲しかったものであり、そこから生まれてくるものに正直になること、それが作品になっていくことに、いつも喜びと次の自分への指標がある。



夕刻、山田町に入った。
少し45号線沿いに北上し、光山温泉という温泉で久しぶりに汗を流し、広い湯船にゆっくりと身体を浸した。
絡まった自分が少しずつほどけていくようで、石井友規の心の中には、満ち足りた気持ちが広がっていった。







(この日記は、石井友規写真事務所担当スタッフが、石井友規本人から送られる写真・旅程等をもとに、その行動を想像を交えながら自由に描いております。)






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